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トーアスポーツマシーンについて

社長インタビュー

少年・青年・壮年時代から現在まで。モノづくりに携わってきた50年間。

トーアスポーツマシーンの代表、野里和(のざとかず)さん。1957年生まれ。先代であるお父さんと共に現在の野球ビジネス(メインの商品は野球のピッチングマシーン)を始め、2代目社長としてご活躍中。

トーアスポーツマシーンの代表、野里和(のざとかず)さん。1957年生まれ。先代であるお父さんと共に現在の野球ビジネス(メインの商品は野球のピッチングマシーン)を始め、2代目社長としてご活躍中。

少年時代。夏休みは鉄工所でお父さんの手伝いをする毎日。

少年時代。夏休みは鉄工所でお父さんの手伝いをする毎日。
Q. 野里さんは2代目の社長だとお聞きしています。

2代目と言えば2代目ですが、この野球ビジネスに関しては最初から携わっていた関係で、自分では1.5代目だと思っています。
創業者である父は、今年生きているとしたら101歳。中国の戦線に行って29歳で帰還したのちに昭和27年から鉄工所を立ち上げて、当時70人くらいの規模の工場を3箇所持っていました。
鉄工所は最終的には上手くいかなくなり、負債は当時1億。でも、そこから再起して、私が中学校に入学した年からは、夏休みや春休みは毎日仕事を手伝わされました。
鉄工所の溶接、穴あけ、機械での加工など、何でも手伝いました。作っていたものとしては、餅つき機、あん練り機、自動卵焼き機などの機械です。

Q. 自動卵焼き機ですか?

そうです。デパートなんかに自動で厚焼き卵を焼けるマシーンが売ってあるでしょ。あれです。設計から試作、開発まで携わりました。先代の一番の発明と言えば、パナソニックのマッサージチェア「モミモミ」の基本特許を取得して、パナソニックに売却したことです。
その後はゴルフボール洗浄機の特許を取得しました。

Q. いろんな機械の生産に携わってこられたんですね!

そうですね。ゴルフボールの洗浄機をミズノに売り込みに行ったご縁で、野球のピッチングマシーンを作ることになりました。そういう経緯があって、私が19歳になる年から今の野球のビジネスが始まったんです。

現在の野球ビジネスを始めるきっかけとなった、ゴルフボールの洗浄機

現在の野球ビジネスを始めるきっかけとなった、ゴルフボールの洗浄機

私もピッチングマシーンの1号機から試作に関わっていました。
当時、大学にも通っていましたが「この仕事であれば、自分の技術力でやっていけるのではないか」と思い、父と一緒にこの会社を経営していくことを決断しました。

Q. 大学はそのまま通われていたんですか?

3年生までは通っていました。大阪学院大学の商学部です。ほとんど麻雀しに行ってたようなもんやけど(笑)
その後、仕事の方が忙しくなったので中退して仕事に専念するようになりました。あの頃は自分で全部やっていましたよ。組み立ても加工も営業も納品も。ピッチングマシーンを紹介しに色々な学校を訪ねていました。
「見てもらえれば買ってもらえる」という時代で、楽しい思い出です。ビジネスを始めてから2年目までで売り上げが1.5倍、それから毎年継続的に売り上げが伸びていきました。野球のピッチングマシーンを中心として、野球グラウンドにある練習用の用具を開発、そしてミズノやアシックス、ゼットなどの大手ブランドを通じての販売で、会社は大きくなっていきました。

大阪からマシーンを売りに九州へ、アメリカへ足を運んだ青年時代。

Q. この野球ビジネスをする中で、嬉しかった出来事について聞かせていただけますか?

あれは九州に納品に行ったときのことです。20歳くらいでした。
マシーンを2台積んで、瀬戸内海に沿って学校15校と小売店を回っていました。「商品を見てください」と。
当時から違うメーカーもあったので「高いな」「買ったばかりだから、見ても仕方がない」と言われましたが、その中でも無理矢理見てもらって。使ってもらうとマシーンの良さが分かってもらえて、ほとんどの学校が4〜5日後には注文をくれたんです。
そのとき買ってくれなかった学校が1校だけありましたが、半年後にその学校も買ってくれたんです。その瞬間がものすごく嬉しかったです。
その後は、全ての工程を自分で担当するには無理なほどたくさん売れましたから、各得意先別に業務を担当してもらうようになり、また社員も増やしていきました。
1990年には「アメリカにも売りに行こう!」と言ってアメリカにまで行きました。
「英語も分からないのに、よう行ったなあ」と思います。

Q. どういうふうにコミュニケーションを取っていらっしゃったんですか?

通訳を連れて行きました。あとは熱意です。商品説明、商品のデモンストレーション。技術的な話をすると、不思議なことに英語と日本語は単語が一緒なので、そういった単語と熱意で伝えていました。
アメリカでも挑戦ができたということは思い出に残っています。

大阪からマシーンを売りに九州へ、アメリカへ足を運んだ青年時代。
アメリカに渡った当時の写真

アメリカに渡った当時の写真

Q. 会社を経営していく中で大変だったことや葛藤を感じたことを教えてください。

うーん、葛藤があるのはいつもです。
経営者というのは誰しも、引退して会社から完全に離れるまでは常にそういうった恐怖心のようなものは持っていると思いますね。私の場合は、そうですね。我々が世の中に提供しているピッチングマシーンから、ボールが150km/hくらいのスピードで飛んでいくわけでしょ。
機械が壊れた、欠陥部品があって回収をした、そういうこともかつてはありました。そういうときは「本当にどうしよう」と思いましたけど。当時の社員、協力工場、得意先、皆さんの協力のおかげで今があるのかなあと思います。
当時は葛藤や恐怖心の中で夜11時、12時まで資料を作って部品を揃えて、という状況でした。

いいものを作ることで、ものは売れる(と、信じたい)

そうやって問題があるたびに、その時は「どうしよう。会社潰れるん違うかな」とまで頭を抱えますが、現在会社が存続しているということは「大きな問題ではなかった」「間違った選択ではなかった」ということだと思います。
そういう出来事を経ることで「経験を積んで気持ちが大きくなっている」という実感はあります。少々の問題が起きても、動じなくなりましたね。

いいものを作ることで、ものは売れる(と、信じたい)

Q. ピッチングマシーンの開発や生産において、絶対に曲げられないポリシーがあれば聞かせてください。

曲げられないポリシーは「いいものを安く、安定的に、ユーザー目線で作っていくこと」です。
「いいものを作ることで、ものは売れる」と信じています。現実的には、それプラス「いかに世の中に認知してもらうか」も大事なんですけど。常に学校を回るなどしてユーザーと接しているのは、次の開発のヒントになるようなものを探しているんです。「お客さんはどういうものを求めてるんやろう」と、拾いに行ってるんですね。とんでもないことを言う人もいますけどね(笑)

お客さんの希望を形にしていかないと、ただ作ったものを「こんな商品、ええやろー!」と押し付けるだけじゃ拒絶されるので。
今はね、自社でものを作らず「仕組み」だけで商売をしている会社もたくさんありますけど。例えばzozotownとか、イオンにしたってそうでしょ。まずは販売から入って名前が広めてから、その販売力でプライベートブランドを作って、売る。その商品も売れるようになって利益率が伸びてきて、より会社が大きくなると。そうやってメーカーになって行きつつある、という商売の仕方もありますね。
我々は反対に「ものづくり」が専門でしたから、やっぱりお客さんに受け入れられる「いいもの」を作るという点に重きを置いて、これからもやって行きたいと思っています。

韓国、中国、台湾をあえて「海外」と考える必要性はない

Q. 会社のミッションを聞かせていただけますか?

私個人のミッションはね、絶対に会社を潰さないことです。
会社の規模は大きくしなくていいから「この会社は絶対的な信用があって、100年、200年と存在し続ける会社」というのをビジョンにしています。それは社員のためにもです。会社がなくなったら寂しいですから。もし社員が会社を辞めても「私あの会社のOBやねん」と胸を張って言えるような会社でありたいです。ただ、ここ10年間はインターネットの普及、急激な少子化の影響で市場が縮小しているので、不安感を覚えています。その中で企業を成長させ続けるためには、今までやっていなかったものをやらざるを得ない。
今後は野球に限らず、バスケット、バレーボール、卓球、テニス、など他のスポーツ分野に広げたり、販売方法も今までとは違う形で行っていく必要性を強く考えています。

Q. 最近では、中国企業のテニスマシンを販売しているとのことですが、ということは「海外との結びつきも今後強めていくのかな」と思ったんですけど。

その辺はね、グローバルな視点で考えると「海外」というものなのかもしれないですけど。
日本、韓国、中国、台湾なんて、あえて「海外」と考える必要性ってあるのかなって思います。一緒じゃない。

Q. 同じ地域として考えていらっしゃるんですね。

同じアジア圏で、ここ(大阪)から北海道行くより、韓国行った方が近いじゃない?
じゃあ「同じものが韓国で売れるなら、韓国行ったらええやん」と思いますね。
向こうの方が技術的に進んでいる部分があるなら提携するなり、そういう協力関係は大いに持つべきです。その一環として、今回たまたま中国のテニスマシーンのメーカーと協力することになって「日本での販売はうちの会社に任せてくれる?」という話をしました。
反対に彼らが野球のマシーンにもビジネスの範囲を広げることになれば、我々が協力しますし。ただそれだけじゃないのかなって。
なので韓国、中国、台湾は「海外」という視点で見てはいなくて単純に「パートナー」だと思っています。

健康第一でいてほしい。
それを維持するために「スポーツ」というものを何かしら生活に取り入れてほしい。

Q. 最後にみなさまへメッセージをお願いします。

スポーツ業界に携わっている者としては、社員を含めみんなが健康第一でいてほしいです。それを維持するために「スポーツ」というものを何かしら生活に取り入れてほしい。
健康であることが仕事にも繋がって「やりがい」「生きがい」を得られると思います。
そういう人たちが増えるように、我々はスポーツが少しでもおもしろくなるような用具・器具を提供できる立場であればいいなと思っています。